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てらたにこういち
Kouichi Teratani
Thinker,Journalist,Creator

東京都新宿区生まれ
誕生日:8月8日
趣味はスキーにバイク、ウェイクボード
60年代生まれの独身×あり

[未完成]思想家、ジャーナリスト。
映像クリエイター、執筆、PR制作/HERMES inc.代表取締役。
フリージャーナリストとして歌舞伎町のまちづくりをウォッチするほか、ブログ、執筆、インタビュー、WEB戦略などを通じ、歌舞伎町の光の側の発信源の「核」。自身の活動として地下鉄や山手線など公共交通機関の24時間運行、夜間電力の有効活用・蓄電によるバスのオール電化推進、風適法の実態にあった改正と営業時間規制撤廃などを求めた活動。
また、現代をヒトの大進化過程、進化パンデミック前夜であるとし、X・Yに変わる新たな性染色体"Z"の出現を予言。
 
"Anyone who trades liberty for security deserves neither liberty nor security. "
by Benjamin Franklin

"You would rather than escape to a goodness,put you at precarious life."
― 『善良』に逃げ込むぐらいなら、人生を危険にさらせ。
by Kouichi Teratani
 
中心(0)思想、Neo Anarchist。

2011年2月20日日曜日

「政府の正当性、革命権行使の正当性」

政府の統治の正当性とは、被統治者である国民の同意による。そもそも、政府とは政治家のみをさすわけではない。

現実論として、例えば日本は、「法治国家」であるが、その「法治国家」である根幹を支えるのは検察や警察であり、彼らは公務員であり政府系職員であり、事実上政府そのものである。

したがって、政治家の首をすり替えるだけの選挙では、国は変われない。それが選挙はアヘンと同じといわれる所以でもあろう。

もし、政府が国民の同意に反している、と被統治者たる国民が感じたならば、社会契約を破棄、つまり革命権の行使はその正当性を得る。革命権の行使には、全公務員・政府系職員の解雇・全議会の解散、再構築まで含まれる。



だが、この国はどうだろうか。

その選択肢があるのだろうか。



答えは、「無い」。

アラブの革命を見ていていろいろ考える。
彼らが、この革命を経て、それで前より幸せになれるかどうかはまだわからない。だが、新たな「平和」に向かって「自分たちで」目指そうという志は素晴らしい。
アラビア語圏、多数の国々が含まれるこのエリアでは、価値観や世界観の近い者同士が近い言語で相互に影響しあう環境がある。いわば、そのことが、他国の出来事がその国の法と統治が及ばない自国へと、自国のことが自国の法と統治が及ばない他国へと、テコの要領で増幅しながら影響を与え、この状況は生まれた。

だが、日本は、さしずめ言語圏的に「ガラパゴス」である。
なかなか、そのテコが効かない。
「ガラパゴス」故の良さ、そして、故の変化の難しさがそこにはある。

そもそも、望んでこの国に生まれたわけではない国民が、望んでこの国を選んで居続けられるようにできるとすれば、そして、それが「平和」なうちに選択しうる革命権行使が可能となる「制度」があってこそ然るべきではないか。

この国の政府について、革命権行使の正当性を測る「投票」的制度をどのようにしたら作れるのか、考えていこうと思う。

“平和”

“平和”の語源は漢語の“和平”からの造語、明治維新以降、外交政策の中で“Peace Ttreaty”(平和条約と訳された)等、“PEACE”の訳語として用いられるようになったものだ。

しかしpeaceは、ラテン語paxを語源に持つpacifyと同じ類に属する言語。pacifyが、平定、あるいは平和にする、と訳されるように、かなり強い意志に基づく能動的な言葉であるといえる。

強者が弱者を抑えての平定、封建社会から脱し、明治維新という「部落解放」政府を正当化する過程において、見せかけの民主主義による国家統治を実現するにあたり、統治する側から見て、“平定”という語感がこの国の農耕民族的風土に馴染まなかったから漢語の“和平”が倒置されて“平和”という言葉が生まれた。

さしずめ、Pax Romana (パークス・ローマーナ)といえばローマ帝国によって維持された平定状態であり、ここから応用されて、イギリス帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間をPax Britannica、戦後から現在に至るPax Americana(パークス・アメリカーナ)とは、派遣国家アメリカ合衆国の「力」が形成する「PEACE」である。

「PEACE」は中華帝国を中心に外交秩序を形成し、戦争のない状態へと「和平」することを指す中華思想の根幹である“柵封体制”は近い。だからこそ、派遣国家同士、アメリカと中国は対立や摩擦も起きやすい。



よってこれら「PEACE」の反対語は、基本的な解釈で言えば「WAR」(戦争)であった。戦争状態が平時なのか、或いは平和状態が平時なのかは議論があるだろうが、少なくとも、我々日本人の語感においても、「戦争」がなくても平和ではない場合はいくらでも想定できるだろう。

貧困、飢餓、差別等々・・インド人はpeaceの反対はpeacelessだと唱えた。そして、それを正すための戦いも平和のため、だと考えるのが、平和=サラーム(神のもとに正義、公平がなされること)であるアラビアの人たち。



和を以て平らに、その語感は日本の良さのようにモラルとして創作され、“PEACE”を翻訳した“平和”は統治的論理に基づく政治的用語であったことから見るに、“平和”が、それを”善”と刷り込まれている非統治側の国民、農耕的民族である日本人はこうして羊牧化されてきた。

そうして現代のこの国に、“平和”という羊牧的言語と、その音や刷り込みによて、“和”が善、“戦”は悪という風土が染み込んだ。生きるものが持つべき本能的な能力であった、「勝てない喧嘩、勝てる喧嘩を瞬時に判断する能力」を奪ってしまった、あるいは退化させたとも言えよう。

だが、一方で、ここまでの私の説明に違和感を感じる人は多いかもしれない。

そう、その通り、かつてそう造語された“平和”は多文化の交流や、英語圏以外の文化も含め翻訳されて輸入され、それらがクロスオーバーした中で、日本には日本人の個々が思う“平和”が出来上がった。この“平和”という言葉は、思想の自由に基づく、個々の思索の中で自由な解釈が加えられ、故に、思想的言語であるからこそ、“平和”の解釈は、“あなたの中にある”解釈そのもので、それが「答え」でもあり、そのすべてが間違いではない。



さて、それでは改めて問う。ボクらの「平和」の定義はどのへんなのか、あるいはどのような範囲の広さを持つのか。



実は、その答えすら重要ではない。

こうして、当たり前に使っているようで、実は定義付けが合わない、個人の思想や思索に基づく言語は数々ある。「愛」「自由」「正義」「悪」「健康」等々。

同じ言語を話している「ように見える」同じ日本人同士でも、これらの言葉は、決して同じではない。さらにそれが翻訳されて使われる段階でなお一層誤解を生む。が、誤解があると知らずにコミュニケーションをしている、それで「寛容」「多様性」という言葉で覆うことは、目くらましに等しい。

そもそもコミュニケーションとは、相互理解であり、相互の差異をなるべく多く感じる努力なしには成立しない。また同様に、「平和」も個々の思索に基づく概念である以上、相互差異と理解を深め、互いに選択する「平和」の在り方を尊重しようとする前向きな「力」なくしては成立しない。

麻雀用語で使われる平和(ピンフ)は、府が無いこと、つまり平和は何もない状態を指す。何もない状態とは、人が誰もいないに等しく、だが、それが不可能であるなら、お互い何もしないという選択をするとする。だが、「お互い何もしない」ことは「無関心」ということであり、マザーテレサが言ったとされる言葉を借りれば、それは「愛情の正反対」のことをしている、ということになる。

「愛」が無い「平和」を求めるのか、「愛」がある「平和」を求めるのか。私の答えは、後者です。

2011年2月16日水曜日

「思想」

「思想」と「哲学」


哲学は探求、思想は運動的広がりを持つがと見えはするが、哲学も思想的に語られ、思想も検証の段階などで哲学的になり得る。
そもそも、個の思索からのこれらを肯定・否定したところで、それ自体も個の「思想」「哲学」とその定義付けによるもので、
ということは、あくまで答えは、その違いすら「個」の解釈をも縛るものではない。
ともに「個」の思索による、いわば思想から生じる定義付けである故に、解釈はあくまで「個」にゆだねられて良い。
答えは「あなたの中にある」としか言いようがない。

もちろん、その答えも、「あなたにとって」の答えである以上、正解とか間違いといえるものでもない。
「定義付け」にそぐわない言葉は他にも多くある。
「幸せ」とは?「正義」とは?「神」、「悪」、そして「愛」も。
それらを「個」の中で「定義付け」し、それを他者向けに広がるものが「思想」であり、内向きに探求するものが「哲学」という「感じ」はあるか。



「正義」

内なる「正義」は、「個」の思想によるものである、と考えれば、正義はそもそも人類の数だけ存在する、といえる。
しかし、ここで言う「正義」とは、所謂一般論であり、社会において共有されるものについて言及しよう。

すべての“正義”は、差別を内包している。アリストテレスの“最高のフルートは誰の手に”の話は面白い。だが、テロス的論法において、では人は何を目的として存在しているのか?その目的を人が決めること自体、極めて恣意的ではないか。つまり、社会は恣意的なものである、完全なる正義や公正は存在しない、とアリストテレスは紀元前においてすでにその限界を証明した。
一方で「何を目的として存在するか?」その思想において人は自由である。しかし、社会は、社会の利益保全のために教育、政治、あるいは美徳という名のもとに人に「矯正」を施す。
社会利益の保全とは何か?それは市民の自由を守ることだが、同時に、そのために自由は制限する。

この矛盾の解は?

人は弱く、とても一人では寂しくて生きていけないほど弱い存在だからだ。

社会はそうやって出来上がっている。だが、ここで問題になるのは、「個」の内なる「正義」と、社会一般における「正義」はどちらが優先されるものなのか?という問いである。社会は、それが成立する手段として存在するものが「宗教」「法律」、そして「権力」である。あるいは「モラル」や「常識」と語られるケースもあろう。「個」の自由を守りながら、社会の利益を保全する、そのために「やむを得ず」存在するものが、いわば「宗教」「法律」であり、これを実行するためにある種の「暴力」による力、これが「権力」である。
この「力」は、「正義」の名の下に行使される。「法」における「正義」であり、「社会」の正義であり、あるいは「宗教」上の正義。だが、あなたに問いたい。もし、あなたが、全てを兼ね備えている人だとしたら、あなたは、その「行使」を「正義」とは思わないだろう。あくまで、それは優先されるべき何かの「利益」を保全するための手段に過ぎないことを知っている。
だが、人は全てを兼ね備えてはいない。どちらかと言えば、欠けた部分が多い存在である。だがら、そんな無知な「人」のために、やむを得ず「正義」という言葉が用いられる。

つまり、「法」も「権力」も、そして「正義」も、「やむを得ず存在する」もの=「必要悪」なのだ。

「宗教」「法律」、あるいは「権力」とはそのようなものであり、故に、その肥大化を許してはならない。
「政府」はまさにその典型的構造である。したがって、必要最小限の政府は認めるものの、あくまで「必要悪」である以上、そのサイズは極小でなければならない。

この世で、最も危険でたちが悪いもの、それは、「正義」の名のもとに「力」が行使される場合である。これこそ、人の「愚か」そのものである。



「繁華街」

雄弁な者の言葉は美しい。また、言葉自体がもつ二元性の中に「美意識」があるからこそ雄弁なのだろうとも思う。
だが、美しい言葉の力では、例えば、矛盾したもの同士が、さらにグラデーションの中、ドット状に存在するこの世界に、近づくことはできても、表現はしきれない。
人が人と繋がることは、それをプラス一次元的に補完はするだろう。だが、同時にシナプスの三元的な限界に直面する。
「表現者」のもがきはそこにある。四元的思考は、今の「人」には多分届かない。
しかし、人に足りないものがそこら辺にある「感覚」は、せめて誰もが共有できる「世界」にしたいと思っている。
「繁華街」は、そういった現実社会において、唯一「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超えて人が人と繋がりを持てる空間、「場」である。
そもそも「縁」の形が変質し、古い「縁」の形が薄れていくのは必然だが、人同士、お互いキャパもあろう。
人が「ストレス」な繋がりを捨てていくのは、ある種の社会の成熟との裏返しなのでもあろう。
寂しい寂しいと言う前に、一人でも生きる気構え、「孤独」に耐える「力」がもう少しあってもいい気もする。
だが、そもそも人はそれほど人と「繋がる」必要性があるわけでないにしても、「繋がりたい」時に「繋がれる」場所やツールは有用である。
インターネットなどツールの豊かな社会になり、ストレスのかかる「リアル」な繋がりは徐々に敬遠されていくかもしれない。
また、そのことで、人自身のストレスへの耐性も失われるだろう。
だが、だとしてもだ。人が人と「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超え、リアルに繋がれる場所であることが「繁華街」自体がもつべき哲学である。
「ボクのことを知ってほしい。キミのことももっと知りたい。テレビ、新聞、インターネット。でも、それだけじゃ足りないんだ。だからここで、キミと知り合えたらいいな。」
「ここ」こそが、「繁華街」なのである。


「人」の進化
「人」はその予感をすでに遺伝子の中に感じ始めている。小惑星衝突、破局噴火、人類滅亡のシナリオは数々あれど、Y染色体遺伝子情報の突然消失(現在78 ちなみにXは約1,000)による滅亡の方が大分可能性高い。
たとえば性同一性障害の中に、あるいは新たな「雄」の出現兆候はないか?Z染色体、或いはXXの中での雌雄決定プロセスへと進化しようとする「生命存続へのもがき」と見ることはできないだろうか。
いずれにせよ、Yはいつか消失する。現在種としてのXY型「男」は滅びる運命なのは間違いない。
 そもそも、「人」とは「女」のことを差すのではないか。
「男」とは、「人」である「女」が存続のためにあれやこれやと作り出してきた作品に過ぎない気がする。
完成された生き物としての「女」、一方「男」は永遠の試作品、X曰く「ダメならそろそろ次行くワ」近い将来Z染色体出現が予感される。
もしすでに「人」が、Z染色体の出現、あるいはXXによる雌雄決定段階に差しかかりはじめているとしたら。
それを現人類は、現世界は、「進化」として捉えられるのだろうか。
「障害」「病気」等、その捉え方について、致命的な間違いを犯してしまっている可能性はないのだろうか。

仮に、Y染色体の遺伝子情報が消滅しても「人」は滅びなかったとしよう。それは、例えばXXまたはXZの「男」が現れるということである。XXやXZの「男は、現在種であるXYの「男」より、他の生物同様小型化する可能性は高い。
なんというか、XY型の現在種「男」は、最後の、女より大きい、強い、「女を守る騎士(ナイト)」種になるんじゃないかな。
進化の後の人類の生態としての景色は、「女」はFTM化し、「男」はMTF化しているように見える気がする。
現人類における、精子数の急激な減少や胎盤生成不良など基本的なことから、いわゆる「男」の中性化は、確実にY染色体の劣化によるものだろう。
が、これと、XXやXZ型「男」の出現風景も、実は大分似ている可能性がある。

話は戻るが、確実に滅びる現在種としてのXY型「男」は、「女」より強く大きいことで、「女」の生きていける社会・世界を作った。そして、役割を終えたら、次の進化のプロセスを邪魔しないように滅びなければならない。

シンプルに言えば、確実に滅びる我々XY型「男」の本質的な役割は、まさに「女」を守り「女」の生きていける社会・世界をつくること、それは「答え」じゃないだろうか。滅びゆくXY型「男」としては、だからと言って「男は消耗品」はちょっと違う。役割は完結できてない、それを果たそうよって。

役割を果たして去る「潔さ」の美意識、DNAに操られてる感もあり、諦め荒む男もYの劣化故やむを得ず。「女」が偉大なのは変わらないが。




斯く言う私自身も、ふと触られてしまえば溶けそうな心を持ってもいる。
だが、触られるのを求めたって得られるものではない。言ってみりゃ、それが「奇跡」。「奇跡」は人生に、何度かあればいい。あのコに手を握られながら眠りに落ちた時、死んでもいいと思ったこともある。
だけど、そーはいかないんだよね、だから結局手を放す。
でもなぁ、次に握る手こそは、放さないで済むようにしたい。
だからオイラも、もう一歩「進化」しないと。