2011年12月4日日曜日

totorabo[笠井舞] 2011/12/2 Live『バースデー』 @四谷天窓.comfort より




笠井舞。

初めて会ったのは去年の1月、冬の冷たい風が吹く新宿でのことだった。
寒空の下、その日ストリートでギターを弾き語る彼女は、凍えた指が弦で切れ、血が流れていたのに、それでもなお歌い続けてた。
透きとおった優しい歌声、可愛らしい笑顔と、でも、その中に、見える姿とは違う、「魂」を感じた。

それから、何回か、彼女の歌声を街で聴いた。

去年の春頃、彼女の、自殺を考えた人のことを書いたんだという『14インチ/100年』という曲を聴いた時、不覚にも、カメラを持つ手が震えた記憶がある。

歌を、好きで好きでしょうがない。
音楽が、好きで好きでしょうがない。
そんな彼女を見てると、歌や音楽が、詩がもつ無限の可能性を信じたくなる。



何があったのかは知らない。
それを聞くこともしなかった。
過ぎた時間は戻らないから。


12月2日、totoraboこと、笠井舞は、彼女が25歳になったこの夜のライブで、音楽活動を休止した。

「水」は、たとえ流れるところが見当たらないような時も、自然と流れる場所を見つけていく。
人の人生も多分、そんな感じ。ちゃんと、何かに辿り着きながら、また折り返して、たまには休んで、また折り返して。

「意志」というのは、先回りして流れる場所をつくっておく、で、そこに自分を行かせるような感じ。
人の、「人」たる所以は、その「意志」にあるのだが、だけど、ときには、自然の流れを感じてみるのも大事なこと。


ダイジョウブ。

完璧なものなどないのだから、何度も折り返し、折り返し、不完全な「自分」と付き合いながらみんな生きている。そして、「水」のように、ちゃんと丁度いいところに、いつか導いてくれるものさ。

次に会える時は、どんな彼女に、なっているのかな。
ひとまず、この、折り返しとなったライブに立ち会えて光栄でした。


また、彼女に、会えますように。


totorabo[笠井舞]
 http://totorabo.web.fc2.com/
 http://ameblo.jp/totorabo/

2011/12/2 Live『バースデー』 @四谷天窓.comfort より

・14インチ/100年
・迷い草
・かくれんぼ
・臆病者にヘッドフォン

2011年11月2日水曜日

"境界" ―The Border―

世界と、また違う別の世界と
目に映る像は、いつだって光が創る、その境界面

目に映る光に魅かれ、導かれ
ただ、それだけじゃ足りないから
近づいて、境界面に手を伸ばしてみるんだ

手が届けば
目に映らない温度や、なめらかさに触れ
その向こうの、光放つ世界の温もりや瑞々しさを感じられるかもしれない

触れられないのならば
境界面は、どこからか放たれる光の映し出す輪郭
ただの像なのかもしれないのだから
目を閉じ、目に映る光を遮ってみる
その時はじめて、
世界の、凍てつく痛みが、渇きが、匂いが
心に届くこともあるだろう

向かい合った心は、必ず、二つの世界を映し出す
ボクの目に映る世界にはキミの姿が見えるけど、ボクの姿はない
キミの眼に映る世界にはボクがいるけど、キミがいないように

だからそんな時は、目を閉じ
不確かな想像の中で、
ボクはキミになり
キミはボクになる

出来ないよね
出来ないけど、してみようとする

恋って、そんな感じかな

同じ向きを向いて
同じ世界を見つめ始めた時に
例えばキミとボクに見えていた二つの世界が、一つに重なることもあるのかな

あるいは、二人で目を閉じて
目に映る光を遮り
目には映らないけど、確かな温度や湿度や匂いを感じてみようよ

そしたら、どこを向いているとか関係なくなって
二つだった世界が一つになって

愛って、そんな感じなのかな


世界の数は心の数より、だからきっと愛の数だけ少ないね
70億の心が映し出す70億個の世界も
たった一つの球面上に浮かぶ、たった一つの世界の一部

なんとなく、それが希望


今一人で、空と雲と地の境界を見つめていた
目を閉じ、ただ一つの世界となって
世界の中心に心を向け、その残像を感じてみた

光を放つものはそれ自体が輝いているのか
それとも、どこからかの光を反射している鏡なのか
あるいは、ガラス玉のように硬く透きとおり
ただ光を透過しているだけなのか


目には映らない光が、光の放つ源に導いてくれる
そんな気がしただけ

それも、また、幻なのかもしれないけど




Kouichi Teratani /詩篇"境界" Kao.(Kaori Ogura)の写真をお借りして、一篇の詩を書いてみました。

2011年10月26日水曜日

"愚行権"

他者の生命や所有に関する許容不可能な危機や損失を与えないこと、が善きものの最低限の条件。
人が社会性生物として生きる限り必要なこと、だとするなら、
が、あくまで"他者の"であり、"自己の"、ではない。
自己の生命や所有に関する、あるいは社会性において、自己の範囲で、許容不能となるかもしれぬ危機や損失を覚悟しても人は、時に、したいことをする。

それは悪か?いや、悪ではない、
それを人は、"愚か"という。

愚行権―"the right to do what is wrong"―
たとえ他の人から愚かでつむじ曲りの過ちだと評価・判断される行為であっても個の領域に関する限りは、他者に邪魔されない意志と行動の自由。
対して、パターナリズム―paternalism―強い立場にあるものが、弱い立場の者の利益になるように、本人の意思に反して意志や行動に介入、干渉すること。

親が子に注ぐ愛は、自己責任力において対等な関係ではない故に、一般的にはパターナリズムが許容される。
国家と市民の関係も、国家は市民の権利と自由を制限するがそれは社会性の維持や公共の利益を損なわず、市民の権利と自由を保護するためのものであり、国家が市民の付託を受けているという前提において、正当化される。
「善き生き方」としての倫理観では、人は概ね、人生に生きがいを求めつつも、賢くありたい、と思うのが通例であるとしている。意図的に、自ら破滅しようとする人は、あくまで例外的であると。だが、その"破滅しようとする"は、他者からの客観に過ぎず、個の心を、意志を、その深淵まで正確に把握することはそもそも不可能であることから見れば、個の判断や意志に対し、善良な心を持ってしても、外部からの介入・干渉は、客観的な推察や一般的な評価を根拠としており、よって、誤る可能性は高い。
親も、"善かれ"と思って、子の意志や行動に介入し、干渉するにしても、実際多くの親の愛は、足りなかったり多すぎたり、間違いを教えるものだ。国家も同様、市民に関わりすぎては、自助自立の志を奪い、また、多くの間違いを積み重ねる。だから、国家は必ず、いつか滅びる。
人はわかりあえる、のではなく、そもそもわかりあえない。
わかりあえたら、とっくに世界はもっと平和になってただろうし、人の心は癒されていたはず。
わかりあうためのツールはどんどん進化してきた。言語や思想、素晴らしい音楽や芸術、IT、法やルールだって、本来進化の象徴でなければならない。しかし、どうだろう、むしろ世界は、人の心は、荒み、より悲しみに溢れている。
だからこそ、わかりあいたいと思うのだ。わかりあうために、繋がり、語り合い、ふれあい、感じあおうとする。もしこの世に魔法があるとしたら、それは心の中にあるお互いが、わかりあおうとする心にあると。
人が、それぞれ心の中に求めるものなど、そもそも同じであるはずがない。わかりきれないし、愛し合う二人でさえも、その愛の形は違う。だが、それでいいのだ。それらが合わさって、全体として一つにしてみたら、形の違う二人の愛を合わせてみたら、なんか丁度いいよね、そんな感じが素敵だと思う。
人として、善き人として、善き関わりをもちながら生きる、それはとても尊いこと。
だが、心の中に、もうひとつの依るところは、誰もたどりつけない高みにたどりつき、愛するキミの生きる、キミが愛するこの世界を抱きしめて生きたいとも思う。そのためならば、善き人である、善き関わりを大切にする意味は無いとも思う。

愛という空間の、世界の中心から光を放つ、
あるいは、その空間を外から照らす、包み込む光となる。
その両方にたどり着くことはことは困難だろう。また、どちらか片方でもたどり着けたのなら、それはとても幸運なこととも思うが、同時に、一つづつの愛の完成にしかすぎない。片方の器を満たすことができても、もうひとつの器は空っぽ。未来を想像したときに、それはやはり、悪い予感となる。
愚かなものは、知らないわけではない。
人は人と合わさって、せめて二人でならば、悪い予感が消え去り、はじめて希望となって、だからなんとか、人が生きて行けることを。だとしても、愚かなものは、愛することをやめはしない。

2011年3月24日木曜日

『お母さん党』―子を持つ「母」、そして、やがて子を持つであろう「女性」にはできる限り「安全」を。それがこの国の「未来」であり、「未来」の礎。

いやぁ・・日本肉食党はオヤスミです。震災、津波、加えて原発事故。これが更に事態を複雑化している。経済は二の次、今は「救出」と「安全」が第一。


歌舞伎町のアーチもネオンも、家庭内消費電力圧縮の啓発とわかってても、とりあえず消さなければと消灯はしたものの、コレ、いつ灯けられるんだ?タイミング難しいだろうなぁ。。

さて、昨夜、高知出身のコ(ゴールデン街ビアンカの菜帆ちゃん)と話してて、放射性物質含有の水の危険性・安全性をちゃんと教えてみたいな流れから、「こんな(放射能被害)状況なら、母と子だけでも絶対安全な場所に避難させればいいのに!”お母さん党”でも作ろっか!」みたいな話しに。
今なら、一番安全そうなのは、、四国か。「“お母さん党”で日本中の母子は四国にみんな疎開。水も魚も野菜も安全。」とか、みたいな?高知県知事になる?とか、まぁ、冗談はほどほどに。

“お母さん党”―ナルホド。政策のトリアージはそこか!

丁度昨日、政府関係者から「テラさんのサイト(歌舞伎町のサイト)にも放射線モニタリングのリンク貼ってくれない?」という話があったので、丁重にお断りした。「正確な情報を提供したい」という政府の意向もわかるが、じゃぁ、そのデーターを正確に読み込む知力は誰もが持っているのか?と言えば、その問いはNo。ならば、あまり意味がない、と思ったからです。

チェルノブイリ事故の線量でさえ、放射線被爆とその後のガン発症やその死に関する因果関係は証明されていない。IAEAの会議記録と公式見解もかなり幅がある。よって、日本のこの「程度」の線量が、「危機」かと問われれば、その答えは永遠に出ないし、「安全」と言われれば、それを否定する答えも出ない。

未来において、この線量による影響はおそらく証明しえない中で、ことさらに今これを「安全」とも「危険」とも言及する気にはさらさらなれない、というのが本音です。

ただ、確実に言えるのは、例えば、私は45才、仮に今度の放射線量の影響が体に現れる頃には、その、おそらく何百倍も甲状腺癌のリスクを年齢として持つゆえに、放射線の影響は限りなく0です。しかし、今後数年、或いはそれ以上、軽度とはいえある程度の放射線量が続くとするなら、被爆による小児甲状腺癌の好発年齢がだいたい30歳以降であることから、特に乳幼児・幼児の放射線被爆については、過度の軽視は良くないかと思います。

この程度の被爆ホウレンソウを、牛乳を、水道水を、いくら摂取しても、40歳以上ならほぼ100%影響は無い。だが、証明できない範囲で存在するリスクは、乳幼児・幼児にはあることは意識されるべきです。

例えば、ほぼ100%影響のないボクら中高年なら、仮に自分自身のためにミネラルウォーターの買い占めなんてしたら、まさに「罪悪」です。しかし、仮に「乳幼児」を持つ母ならば、安全な水を買いあさろうと、「子」を想う「母」としては十分理解できる行動だし、むしろ、それが明確なら、事実上リスクのないものは道を譲るべきではないか。


例えば「買い占め」にも、そのように、それがやむを得ぬ「必要」なケースと、逆に「犯罪的」とも言えるケースと、同じ見かけでもまったく異なる場合がある。そのことを理解して欲しいと思います。



絶対「必要な人」には確実に「必要なモノ」が届くように。



大多数の、事実上このリスクがリスクで無い人は、道を譲り、黙って水道水を飲めばいい。
あるいは代替をみつければいい。


『お母さん党』、ちょっとそのワードに気づかされた。

政策にも、緊急時だからこそ、何を一番大切にしなくてはならないか?未来のこの国のためには。
平等に扱う状況ではない。中年以上の男はこのテのケースで「災害耐性」は強い。だから後回しでいい。政府が直接流通に関与してでも、例えば、政府がミネラルウォーターを買い占めてでも、『乳児・幼児』のいる母には、必要なモノが直接届くような仕組みをつくるべきかと。

政府の対応が遅すぎたってことになる前に、まず、守るべきものを最優先に守って、それから経済。

子を持つ「母」、そして、やがて子を持つであろう「女性」にはできる限り「安全」を。それがこの国の「未来」であり、「未来」の礎なのですから。

2011年2月20日日曜日

「政府の正当性、革命権行使の正当性」

政府の統治の正当性とは、被統治者である国民の同意による。そもそも、政府とは政治家のみをさすわけではない。

現実論として、例えば日本は、「法治国家」であるが、その「法治国家」である根幹を支えるのは検察や警察であり、彼らは公務員であり政府系職員であり、事実上政府そのものである。

したがって、政治家の首をすり替えるだけの選挙では、国は変われない。それが選挙はアヘンと同じといわれる所以でもあろう。

もし、政府が国民の同意に反している、と被統治者たる国民が感じたならば、社会契約を破棄、つまり革命権の行使はその正当性を得る。革命権の行使には、全公務員・政府系職員の解雇・全議会の解散、再構築まで含まれる。



だが、この国はどうだろうか。

その選択肢があるのだろうか。



答えは、「無い」。

アラブの革命を見ていていろいろ考える。
彼らが、この革命を経て、それで前より幸せになれるかどうかはまだわからない。だが、新たな「平和」に向かって「自分たちで」目指そうという志は素晴らしい。
アラビア語圏、多数の国々が含まれるこのエリアでは、価値観や世界観の近い者同士が近い言語で相互に影響しあう環境がある。いわば、そのことが、他国の出来事がその国の法と統治が及ばない自国へと、自国のことが自国の法と統治が及ばない他国へと、テコの要領で増幅しながら影響を与え、この状況は生まれた。

だが、日本は、さしずめ言語圏的に「ガラパゴス」である。
なかなか、そのテコが効かない。
「ガラパゴス」故の良さ、そして、故の変化の難しさがそこにはある。

そもそも、望んでこの国に生まれたわけではない国民が、望んでこの国を選んで居続けられるようにできるとすれば、そして、それが「平和」なうちに選択しうる革命権行使が可能となる「制度」があってこそ然るべきではないか。

この国の政府について、革命権行使の正当性を測る「投票」的制度をどのようにしたら作れるのか、考えていこうと思う。

“平和”

“平和”の語源は漢語の“和平”からの造語、明治維新以降、外交政策の中で“Peace Ttreaty”(平和条約と訳された)等、“PEACE”の訳語として用いられるようになったものだ。

しかしpeaceは、ラテン語paxを語源に持つpacifyと同じ類に属する言語。pacifyが、平定、あるいは平和にする、と訳されるように、かなり強い意志に基づく能動的な言葉であるといえる。

強者が弱者を抑えての平定、封建社会から脱し、明治維新という「部落解放」政府を正当化する過程において、見せかけの民主主義による国家統治を実現するにあたり、統治する側から見て、“平定”という語感がこの国の農耕民族的風土に馴染まなかったから漢語の“和平”が倒置されて“平和”という言葉が生まれた。

さしずめ、Pax Romana (パークス・ローマーナ)といえばローマ帝国によって維持された平定状態であり、ここから応用されて、イギリス帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間をPax Britannica、戦後から現在に至るPax Americana(パークス・アメリカーナ)とは、派遣国家アメリカ合衆国の「力」が形成する「PEACE」である。

「PEACE」は中華帝国を中心に外交秩序を形成し、戦争のない状態へと「和平」することを指す中華思想の根幹である“柵封体制”は近い。だからこそ、派遣国家同士、アメリカと中国は対立や摩擦も起きやすい。



よってこれら「PEACE」の反対語は、基本的な解釈で言えば「WAR」(戦争)であった。戦争状態が平時なのか、或いは平和状態が平時なのかは議論があるだろうが、少なくとも、我々日本人の語感においても、「戦争」がなくても平和ではない場合はいくらでも想定できるだろう。

貧困、飢餓、差別等々・・インド人はpeaceの反対はpeacelessだと唱えた。そして、それを正すための戦いも平和のため、だと考えるのが、平和=サラーム(神のもとに正義、公平がなされること)であるアラビアの人たち。



和を以て平らに、その語感は日本の良さのようにモラルとして創作され、“PEACE”を翻訳した“平和”は統治的論理に基づく政治的用語であったことから見るに、“平和”が、それを”善”と刷り込まれている非統治側の国民、農耕的民族である日本人はこうして羊牧化されてきた。

そうして現代のこの国に、“平和”という羊牧的言語と、その音や刷り込みによて、“和”が善、“戦”は悪という風土が染み込んだ。生きるものが持つべき本能的な能力であった、「勝てない喧嘩、勝てる喧嘩を瞬時に判断する能力」を奪ってしまった、あるいは退化させたとも言えよう。

だが、一方で、ここまでの私の説明に違和感を感じる人は多いかもしれない。

そう、その通り、かつてそう造語された“平和”は多文化の交流や、英語圏以外の文化も含め翻訳されて輸入され、それらがクロスオーバーした中で、日本には日本人の個々が思う“平和”が出来上がった。この“平和”という言葉は、思想の自由に基づく、個々の思索の中で自由な解釈が加えられ、故に、思想的言語であるからこそ、“平和”の解釈は、“あなたの中にある”解釈そのもので、それが「答え」でもあり、そのすべてが間違いではない。



さて、それでは改めて問う。ボクらの「平和」の定義はどのへんなのか、あるいはどのような範囲の広さを持つのか。



実は、その答えすら重要ではない。

こうして、当たり前に使っているようで、実は定義付けが合わない、個人の思想や思索に基づく言語は数々ある。「愛」「自由」「正義」「悪」「健康」等々。

同じ言語を話している「ように見える」同じ日本人同士でも、これらの言葉は、決して同じではない。さらにそれが翻訳されて使われる段階でなお一層誤解を生む。が、誤解があると知らずにコミュニケーションをしている、それで「寛容」「多様性」という言葉で覆うことは、目くらましに等しい。

そもそもコミュニケーションとは、相互理解であり、相互の差異をなるべく多く感じる努力なしには成立しない。また同様に、「平和」も個々の思索に基づく概念である以上、相互差異と理解を深め、互いに選択する「平和」の在り方を尊重しようとする前向きな「力」なくしては成立しない。

麻雀用語で使われる平和(ピンフ)は、府が無いこと、つまり平和は何もない状態を指す。何もない状態とは、人が誰もいないに等しく、だが、それが不可能であるなら、お互い何もしないという選択をするとする。だが、「お互い何もしない」ことは「無関心」ということであり、マザーテレサが言ったとされる言葉を借りれば、それは「愛情の正反対」のことをしている、ということになる。

「愛」が無い「平和」を求めるのか、「愛」がある「平和」を求めるのか。私の答えは、後者です。

2011年2月16日水曜日

「思想」

「思想」と「哲学」


哲学は探求、思想は運動的広がりを持つがと見えはするが、哲学も思想的に語られ、思想も検証の段階などで哲学的になり得る。
そもそも、個の思索からのこれらを肯定・否定したところで、それ自体も個の「思想」「哲学」とその定義付けによるもので、
ということは、あくまで答えは、その違いすら「個」の解釈をも縛るものではない。
ともに「個」の思索による、いわば思想から生じる定義付けである故に、解釈はあくまで「個」にゆだねられて良い。
答えは「あなたの中にある」としか言いようがない。

もちろん、その答えも、「あなたにとって」の答えである以上、正解とか間違いといえるものでもない。
「定義付け」にそぐわない言葉は他にも多くある。
「幸せ」とは?「正義」とは?「神」、「悪」、そして「愛」も。
それらを「個」の中で「定義付け」し、それを他者向けに広がるものが「思想」であり、内向きに探求するものが「哲学」という「感じ」はあるか。



「正義」

内なる「正義」は、「個」の思想によるものである、と考えれば、正義はそもそも人類の数だけ存在する、といえる。
しかし、ここで言う「正義」とは、所謂一般論であり、社会において共有されるものについて言及しよう。

すべての“正義”は、差別を内包している。アリストテレスの“最高のフルートは誰の手に”の話は面白い。だが、テロス的論法において、では人は何を目的として存在しているのか?その目的を人が決めること自体、極めて恣意的ではないか。つまり、社会は恣意的なものである、完全なる正義や公正は存在しない、とアリストテレスは紀元前においてすでにその限界を証明した。
一方で「何を目的として存在するか?」その思想において人は自由である。しかし、社会は、社会の利益保全のために教育、政治、あるいは美徳という名のもとに人に「矯正」を施す。
社会利益の保全とは何か?それは市民の自由を守ることだが、同時に、そのために自由は制限する。

この矛盾の解は?

人は弱く、とても一人では寂しくて生きていけないほど弱い存在だからだ。

社会はそうやって出来上がっている。だが、ここで問題になるのは、「個」の内なる「正義」と、社会一般における「正義」はどちらが優先されるものなのか?という問いである。社会は、それが成立する手段として存在するものが「宗教」「法律」、そして「権力」である。あるいは「モラル」や「常識」と語られるケースもあろう。「個」の自由を守りながら、社会の利益を保全する、そのために「やむを得ず」存在するものが、いわば「宗教」「法律」であり、これを実行するためにある種の「暴力」による力、これが「権力」である。
この「力」は、「正義」の名の下に行使される。「法」における「正義」であり、「社会」の正義であり、あるいは「宗教」上の正義。だが、あなたに問いたい。もし、あなたが、全てを兼ね備えている人だとしたら、あなたは、その「行使」を「正義」とは思わないだろう。あくまで、それは優先されるべき何かの「利益」を保全するための手段に過ぎないことを知っている。
だが、人は全てを兼ね備えてはいない。どちらかと言えば、欠けた部分が多い存在である。だがら、そんな無知な「人」のために、やむを得ず「正義」という言葉が用いられる。

つまり、「法」も「権力」も、そして「正義」も、「やむを得ず存在する」もの=「必要悪」なのだ。

「宗教」「法律」、あるいは「権力」とはそのようなものであり、故に、その肥大化を許してはならない。
「政府」はまさにその典型的構造である。したがって、必要最小限の政府は認めるものの、あくまで「必要悪」である以上、そのサイズは極小でなければならない。

この世で、最も危険でたちが悪いもの、それは、「正義」の名のもとに「力」が行使される場合である。これこそ、人の「愚か」そのものである。



「繁華街」

雄弁な者の言葉は美しい。また、言葉自体がもつ二元性の中に「美意識」があるからこそ雄弁なのだろうとも思う。
だが、美しい言葉の力では、例えば、矛盾したもの同士が、さらにグラデーションの中、ドット状に存在するこの世界に、近づくことはできても、表現はしきれない。
人が人と繋がることは、それをプラス一次元的に補完はするだろう。だが、同時にシナプスの三元的な限界に直面する。
「表現者」のもがきはそこにある。四元的思考は、今の「人」には多分届かない。
しかし、人に足りないものがそこら辺にある「感覚」は、せめて誰もが共有できる「世界」にしたいと思っている。
「繁華街」は、そういった現実社会において、唯一「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超えて人が人と繋がりを持てる空間、「場」である。
そもそも「縁」の形が変質し、古い「縁」の形が薄れていくのは必然だが、人同士、お互いキャパもあろう。
人が「ストレス」な繋がりを捨てていくのは、ある種の社会の成熟との裏返しなのでもあろう。
寂しい寂しいと言う前に、一人でも生きる気構え、「孤独」に耐える「力」がもう少しあってもいい気もする。
だが、そもそも人はそれほど人と「繋がる」必要性があるわけでないにしても、「繋がりたい」時に「繋がれる」場所やツールは有用である。
インターネットなどツールの豊かな社会になり、ストレスのかかる「リアル」な繋がりは徐々に敬遠されていくかもしれない。
また、そのことで、人自身のストレスへの耐性も失われるだろう。
だが、だとしてもだ。人が人と「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超え、リアルに繋がれる場所であることが「繁華街」自体がもつべき哲学である。
「ボクのことを知ってほしい。キミのことももっと知りたい。テレビ、新聞、インターネット。でも、それだけじゃ足りないんだ。だからここで、キミと知り合えたらいいな。」
「ここ」こそが、「繁華街」なのである。


「人」の進化
「人」はその予感をすでに遺伝子の中に感じ始めている。小惑星衝突、破局噴火、人類滅亡のシナリオは数々あれど、Y染色体遺伝子情報の突然消失(現在78 ちなみにXは約1,000)による滅亡の方が大分可能性高い。
たとえば性同一性障害の中に、あるいは新たな「雄」の出現兆候はないか?Z染色体、或いはXXの中での雌雄決定プロセスへと進化しようとする「生命存続へのもがき」と見ることはできないだろうか。
いずれにせよ、Yはいつか消失する。現在種としてのXY型「男」は滅びる運命なのは間違いない。
 そもそも、「人」とは「女」のことを差すのではないか。
「男」とは、「人」である「女」が存続のためにあれやこれやと作り出してきた作品に過ぎない気がする。
完成された生き物としての「女」、一方「男」は永遠の試作品、X曰く「ダメならそろそろ次行くワ」近い将来Z染色体出現が予感される。
もしすでに「人」が、Z染色体の出現、あるいはXXによる雌雄決定段階に差しかかりはじめているとしたら。
それを現人類は、現世界は、「進化」として捉えられるのだろうか。
「障害」「病気」等、その捉え方について、致命的な間違いを犯してしまっている可能性はないのだろうか。

仮に、Y染色体の遺伝子情報が消滅しても「人」は滅びなかったとしよう。それは、例えばXXまたはXZの「男」が現れるということである。XXやXZの「男は、現在種であるXYの「男」より、他の生物同様小型化する可能性は高い。
なんというか、XY型の現在種「男」は、最後の、女より大きい、強い、「女を守る騎士(ナイト)」種になるんじゃないかな。
進化の後の人類の生態としての景色は、「女」はFTM化し、「男」はMTF化しているように見える気がする。
現人類における、精子数の急激な減少や胎盤生成不良など基本的なことから、いわゆる「男」の中性化は、確実にY染色体の劣化によるものだろう。
が、これと、XXやXZ型「男」の出現風景も、実は大分似ている可能性がある。

話は戻るが、確実に滅びる現在種としてのXY型「男」は、「女」より強く大きいことで、「女」の生きていける社会・世界を作った。そして、役割を終えたら、次の進化のプロセスを邪魔しないように滅びなければならない。

シンプルに言えば、確実に滅びる我々XY型「男」の本質的な役割は、まさに「女」を守り「女」の生きていける社会・世界をつくること、それは「答え」じゃないだろうか。滅びゆくXY型「男」としては、だからと言って「男は消耗品」はちょっと違う。役割は完結できてない、それを果たそうよって。

役割を果たして去る「潔さ」の美意識、DNAに操られてる感もあり、諦め荒む男もYの劣化故やむを得ず。「女」が偉大なのは変わらないが。




斯く言う私自身も、ふと触られてしまえば溶けそうな心を持ってもいる。
だが、触られるのを求めたって得られるものではない。言ってみりゃ、それが「奇跡」。「奇跡」は人生に、何度かあればいい。あのコに手を握られながら眠りに落ちた時、死んでもいいと思ったこともある。
だけど、そーはいかないんだよね、だから結局手を放す。
でもなぁ、次に握る手こそは、放さないで済むようにしたい。
だからオイラも、もう一歩「進化」しないと。

2011年1月2日日曜日

2011年 元旦

謹賀新年 2011年元旦(2011/1/1 AM6:56)元旦の朝日。

朝日はたびたび見ますが、そーいう時間に帰宅したり寝ることが多いもので。
しかし、元旦の朝日は、何か、沸々と、不思議と力をくれる、そんな感じがします。
イメージとしては、「希望」というものは、人が想像できる未来の、おそらく良いほうの姿。
ありうる未来には幅があって、今が「要」だとすれば、未来は最良と最悪の幅の「扇」の間にある。
過去を振り返ればひとつしかない道を歩んできたようでもあり、だが、未来を見渡せば、その「扇」の面に無数の道筋をもつ。
では、「個」として存在する我々は、その未来に一体何ができるのか。



「希望の在り処」



人は元来正直なものです。だが、正直っていうのは、大抵まっすぐじゃなくて曲がってるもので、だからボクは、その曲がったところまで正確に見つめます。
100点満点の正解はない。どれほど素晴らしく見える「答え」にも、必ず「功」と「罪」がある。
だが、言いかえれば、それはないんじゃない?っていう「答え」にも必ず「功」がある。

ボクはそこを見極める。

もし、今、進まなければならない「道」があるとしたら、やはり、進まなければいけないでしょう。
その「進み方」にも正解はない。
敢えて言うなら、進まなければいけない以上、「進む」が唯一の「正解」であり、進む方向は、その瞬間においてはそれほど意味がない。

「正解」に近づこうとする志は素晴らしい。
だが、それは効率的に短時間に答えを出そうとしているに過ぎず、「正解」から離れそうな「予感」が再び無駄なエネルギーを消費させ、進む力を阻害するとしたら、その「善良」な「予感」はむしろ本末転倒で無用であるばかりか邪魔になる。
どう進もうとも、「社会」は、「世界」は、必ずそのあたかも生命がただ本能的に生きようとする生命力のような抗えない力によって「大多数の利益」に引っ張られる。
つまり、間違って進めば、それが反面教師となって正しい道を見つける力を生むバイアスとなる。
故に「進む」ことは、必ず「答え」に近づくことに繋がるのです。


「抗えない力」、それを感じてください。
できるはずです。なぜなら、キミの中にも必ずあるはずなんです。
その「抗えない力」の欠片が。

抗えない、我々は、そして「個」は、その前ではさらに無力です。
その「抗えない力」の前で、絶望しそうなほど失望したとき、気づくでしょう。
その「抗えない力」は命の力、ただ、生きようとする力なんです。

抗えない、その失望の中に、だからこそ「希望」が見えませんか?
ボクは、無暗に何かを信じたりはしない。
ただ、事象としての真実を正確に捉えようとする。
だが、この決して滅びない、抗いようのない力だけは、見えないけれど、信じています。

「幻想」によってつくられた「虚像」の街、そこにボクは立っている。
だが、その「虚像」の中にさえ、隠れたところに「実像」はあり、その「実像」の生命力をボクは知っている。それは、ある意味、ボク自信と相似関係にある。だから直観的にそれを感じられたのかもしれない。

「世界」もそれは同じことなんです。
そう、今も「世界」は、その姿はまさにボク自信と相似関係にある。

2011年、辛卯(かのとう)。一年を表す文字に含まれる「辛」は、殺傷を含む大きな突き上げや変化を意味する。時代は膠着している。なぜ膠着しているかといえば、変化を望まぬもの(世代)と望む者(世代)の、望まぬ側がまだ多数だということを表している。高齢化社会ですからね。否が応でも、この国は大混乱期を前にしている。安定志向がマグマ溜まりにエネルギーを蓄えさせ、つまり、わかりやすく言い換えれば、変化を望まぬ世代とは、その大混乱期からの逃げ切り世代、変化を望む世代とはそこから逃げ切れぬ世代のこと。このことをどれだけ正確に分析できているかはともかく、これは一種の危機予測、誰もが感じるように変化、若い人たちの言葉を借りれば「リセット」的な変化を望む者は日に日に増えていく。そして、その変化を望むものが多数となった時、その瞬間に時代は大きくうねる様に激変するだろう。世界も同じ、大多数の利益が「平和」を求めているうちは起きなかったことが、大多数の利益が、たとえば「戦争」によって実現できるとなった瞬間に時代は大きく変わる。その変化の向こうにある「世界」が、たとえ、ある「個」にとって望まぬものであろうとなかろうと、2011年という年は、あるいはそろそろかな(まるでヘッジファンドみたいな言い方だが)おそらくその端境期となるように感じています。


2011年、この国は事実上まさに破綻前夜。60台上の世代はそこから必死に逃げ切ろうとこの国の闇を隠蔽し続けている。だが、40より下の世代は逃げ切れない。確実に、破綻したこの国を担わなくてはならない。シグナルはもうすでに届けられた。安定の先にある不安定極まる状態。世代間闘争、それはこの国の人たちが最も苦手としてきたこと。年寄りを大事に、年上を敬え、安全・安心、多様性という名の不感症、刷り込まれたすべて正義が、結果としてこの国の変化を拒ませてきた。もう間に合わない、だから、みんな、直観的に身構える。そしてさらに時代が膠着する。だが、それもそろそろ終わりかな、いや、終わりにしたほうがいい。


「生命」が本能的にだたただ生きようとするのと似て、否が応でも、大多数の人々の「利益」を実現する方向に進もうとする「世界」、あるいは「社会」、あるいは「街」。「未来」を「扇」にたとえたが、確かにその「扇」のどこか一点に向かわせようとしても、「個」の力は無力。だが、その「扇」のある部分には向かわない「程度」のバイアスを与えることぐらいなら、たとえ一人の力もそれほど無力ではない。そのことを、証明できるかどうか、それが自分の使命感。それは、ある種の「失望」でもあるのだが、「失望」の中から見出した自分なりの「希望」の示し方なのです。

「抗えない力」の前で、「未来」は「扇」の面の中にあるが、その「扇」のどこか一点に向かわせようとしては「個」は無力。もしあなたが無力に打ちひしがれているとしたら、多分そういうことだとなんだと思う。だが、その「扇」のある部分には「向かわせたくない」、もしそう思ったとしたら、「抗えない力」はテコに使える。 そういったバイアスを与えることぐらいなら、たった一人の力でも可能だし、「世界」を、「社会」を、「街」を動かせることを見せたい。


「抗えない力」の前で失望した時、その「失望」の中から見出した、「希望の在り処」はそこにある。