2011年2月16日水曜日

「思想」

「思想」と「哲学」


哲学は探求、思想は運動的広がりを持つがと見えはするが、哲学も思想的に語られ、思想も検証の段階などで哲学的になり得る。
そもそも、個の思索からのこれらを肯定・否定したところで、それ自体も個の「思想」「哲学」とその定義付けによるもので、
ということは、あくまで答えは、その違いすら「個」の解釈をも縛るものではない。
ともに「個」の思索による、いわば思想から生じる定義付けである故に、解釈はあくまで「個」にゆだねられて良い。
答えは「あなたの中にある」としか言いようがない。

もちろん、その答えも、「あなたにとって」の答えである以上、正解とか間違いといえるものでもない。
「定義付け」にそぐわない言葉は他にも多くある。
「幸せ」とは?「正義」とは?「神」、「悪」、そして「愛」も。
それらを「個」の中で「定義付け」し、それを他者向けに広がるものが「思想」であり、内向きに探求するものが「哲学」という「感じ」はあるか。



「正義」

内なる「正義」は、「個」の思想によるものである、と考えれば、正義はそもそも人類の数だけ存在する、といえる。
しかし、ここで言う「正義」とは、所謂一般論であり、社会において共有されるものについて言及しよう。

すべての“正義”は、差別を内包している。アリストテレスの“最高のフルートは誰の手に”の話は面白い。だが、テロス的論法において、では人は何を目的として存在しているのか?その目的を人が決めること自体、極めて恣意的ではないか。つまり、社会は恣意的なものである、完全なる正義や公正は存在しない、とアリストテレスは紀元前においてすでにその限界を証明した。
一方で「何を目的として存在するか?」その思想において人は自由である。しかし、社会は、社会の利益保全のために教育、政治、あるいは美徳という名のもとに人に「矯正」を施す。
社会利益の保全とは何か?それは市民の自由を守ることだが、同時に、そのために自由は制限する。

この矛盾の解は?

人は弱く、とても一人では寂しくて生きていけないほど弱い存在だからだ。

社会はそうやって出来上がっている。だが、ここで問題になるのは、「個」の内なる「正義」と、社会一般における「正義」はどちらが優先されるものなのか?という問いである。社会は、それが成立する手段として存在するものが「宗教」「法律」、そして「権力」である。あるいは「モラル」や「常識」と語られるケースもあろう。「個」の自由を守りながら、社会の利益を保全する、そのために「やむを得ず」存在するものが、いわば「宗教」「法律」であり、これを実行するためにある種の「暴力」による力、これが「権力」である。
この「力」は、「正義」の名の下に行使される。「法」における「正義」であり、「社会」の正義であり、あるいは「宗教」上の正義。だが、あなたに問いたい。もし、あなたが、全てを兼ね備えている人だとしたら、あなたは、その「行使」を「正義」とは思わないだろう。あくまで、それは優先されるべき何かの「利益」を保全するための手段に過ぎないことを知っている。
だが、人は全てを兼ね備えてはいない。どちらかと言えば、欠けた部分が多い存在である。だがら、そんな無知な「人」のために、やむを得ず「正義」という言葉が用いられる。

つまり、「法」も「権力」も、そして「正義」も、「やむを得ず存在する」もの=「必要悪」なのだ。

「宗教」「法律」、あるいは「権力」とはそのようなものであり、故に、その肥大化を許してはならない。
「政府」はまさにその典型的構造である。したがって、必要最小限の政府は認めるものの、あくまで「必要悪」である以上、そのサイズは極小でなければならない。

この世で、最も危険でたちが悪いもの、それは、「正義」の名のもとに「力」が行使される場合である。これこそ、人の「愚か」そのものである。



「繁華街」

雄弁な者の言葉は美しい。また、言葉自体がもつ二元性の中に「美意識」があるからこそ雄弁なのだろうとも思う。
だが、美しい言葉の力では、例えば、矛盾したもの同士が、さらにグラデーションの中、ドット状に存在するこの世界に、近づくことはできても、表現はしきれない。
人が人と繋がることは、それをプラス一次元的に補完はするだろう。だが、同時にシナプスの三元的な限界に直面する。
「表現者」のもがきはそこにある。四元的思考は、今の「人」には多分届かない。
しかし、人に足りないものがそこら辺にある「感覚」は、せめて誰もが共有できる「世界」にしたいと思っている。
「繁華街」は、そういった現実社会において、唯一「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超えて人が人と繋がりを持てる空間、「場」である。
そもそも「縁」の形が変質し、古い「縁」の形が薄れていくのは必然だが、人同士、お互いキャパもあろう。
人が「ストレス」な繋がりを捨てていくのは、ある種の社会の成熟との裏返しなのでもあろう。
寂しい寂しいと言う前に、一人でも生きる気構え、「孤独」に耐える「力」がもう少しあってもいい気もする。
だが、そもそも人はそれほど人と「繋がる」必要性があるわけでないにしても、「繋がりたい」時に「繋がれる」場所やツールは有用である。
インターネットなどツールの豊かな社会になり、ストレスのかかる「リアル」な繋がりは徐々に敬遠されていくかもしれない。
また、そのことで、人自身のストレスへの耐性も失われるだろう。
だが、だとしてもだ。人が人と「民族」「宗教」「国家」「思想」そして「言語」を超え、リアルに繋がれる場所であることが「繁華街」自体がもつべき哲学である。
「ボクのことを知ってほしい。キミのことももっと知りたい。テレビ、新聞、インターネット。でも、それだけじゃ足りないんだ。だからここで、キミと知り合えたらいいな。」
「ここ」こそが、「繁華街」なのである。


「人」の進化
「人」はその予感をすでに遺伝子の中に感じ始めている。小惑星衝突、破局噴火、人類滅亡のシナリオは数々あれど、Y染色体遺伝子情報の突然消失(現在78 ちなみにXは約1,000)による滅亡の方が大分可能性高い。
たとえば性同一性障害の中に、あるいは新たな「雄」の出現兆候はないか?Z染色体、或いはXXの中での雌雄決定プロセスへと進化しようとする「生命存続へのもがき」と見ることはできないだろうか。
いずれにせよ、Yはいつか消失する。現在種としてのXY型「男」は滅びる運命なのは間違いない。
 そもそも、「人」とは「女」のことを差すのではないか。
「男」とは、「人」である「女」が存続のためにあれやこれやと作り出してきた作品に過ぎない気がする。
完成された生き物としての「女」、一方「男」は永遠の試作品、X曰く「ダメならそろそろ次行くワ」近い将来Z染色体出現が予感される。
もしすでに「人」が、Z染色体の出現、あるいはXXによる雌雄決定段階に差しかかりはじめているとしたら。
それを現人類は、現世界は、「進化」として捉えられるのだろうか。
「障害」「病気」等、その捉え方について、致命的な間違いを犯してしまっている可能性はないのだろうか。

仮に、Y染色体の遺伝子情報が消滅しても「人」は滅びなかったとしよう。それは、例えばXXまたはXZの「男」が現れるということである。XXやXZの「男は、現在種であるXYの「男」より、他の生物同様小型化する可能性は高い。
なんというか、XY型の現在種「男」は、最後の、女より大きい、強い、「女を守る騎士(ナイト)」種になるんじゃないかな。
進化の後の人類の生態としての景色は、「女」はFTM化し、「男」はMTF化しているように見える気がする。
現人類における、精子数の急激な減少や胎盤生成不良など基本的なことから、いわゆる「男」の中性化は、確実にY染色体の劣化によるものだろう。
が、これと、XXやXZ型「男」の出現風景も、実は大分似ている可能性がある。

話は戻るが、確実に滅びる現在種としてのXY型「男」は、「女」より強く大きいことで、「女」の生きていける社会・世界を作った。そして、役割を終えたら、次の進化のプロセスを邪魔しないように滅びなければならない。

シンプルに言えば、確実に滅びる我々XY型「男」の本質的な役割は、まさに「女」を守り「女」の生きていける社会・世界をつくること、それは「答え」じゃないだろうか。滅びゆくXY型「男」としては、だからと言って「男は消耗品」はちょっと違う。役割は完結できてない、それを果たそうよって。

役割を果たして去る「潔さ」の美意識、DNAに操られてる感もあり、諦め荒む男もYの劣化故やむを得ず。「女」が偉大なのは変わらないが。




斯く言う私自身も、ふと触られてしまえば溶けそうな心を持ってもいる。
だが、触られるのを求めたって得られるものではない。言ってみりゃ、それが「奇跡」。「奇跡」は人生に、何度かあればいい。あのコに手を握られながら眠りに落ちた時、死んでもいいと思ったこともある。
だけど、そーはいかないんだよね、だから結局手を放す。
でもなぁ、次に握る手こそは、放さないで済むようにしたい。
だからオイラも、もう一歩「進化」しないと。

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