2010年5月9日日曜日

「東大解体」

ガバナンス(統治)の能力が欠けている組織、それは政府であれ行政であれ、あるいは会社であれ、大抵規制や法、ルールに手を加えて何とかしようとする。だが、それは活動そのものの自由を奪うことにほかならず、自ら自分の首を絞めることになる。そもそも統治能力が欠けているわけだから、強権的にしか秩序を保てない。それが何を生み出すかといえば、暴力であり、そして、「暴力」はやがて「暴力」によって破壊される。これは歴史的必然であり、しかし、それは極が入れ替わるだけにすぎない。社会的弱者が左から右に変わるだけで、 そもそもどちらかの「弱者」に強いる社会には変わりない。進歩とは言えない。

例えばだが、正直、この国が沈んでもボクは構わない。健康だし、それなりに強い。むしろカオスの方が性に合ってる。ただ、そういう社会は必ず弱者を切り捨てる。弱者とは、お金があるとか無いだけではない。混乱に於いて、貨幣は紙切れ同然、そんなものは役に立たないし、必要であれば「強いもの」は、その「強さ」で奪うこともできる。シンプルに「強い」か「弱い」かの社会、弱者とは、年寄りであり、子供であり、女であり。ボクにも、その「弱者」の中に愛するものがいる以上、無策にそこへ向かわせてはならないとも思うし、それは政治的に言えば敗北、まさに愚鈍。本来政治は「弱者」のものでなくてはならない。

この国は、今、そこに向かっている。社会を見渡せば、その景色は際立っているとは言えないかもしれないが、内在するストレス、怒り、あきらめ、そういうものが日に日に増幅していっているのは多分誰も否定は出来ないだろう。この国は自らの力で改革や変化をするタイプの国ではない。それはおそらく外国から入ってくるだろう。

アメリカでティーパーティ運動が盛んになってきている。ティーパーティー運動(Tea Party movement)とは、2009年からアメリカ合衆国で始まった、バラク・オバマ政権の課税政策、あるいは「大きな政府」路線に対する抗議姿勢を中心とした保守的政治運動を言う。米政府の歳出削減や減税などを訴え、反オバマ(大統領)色を強める「ティーパーティー」の初の全米集会が2月6日にテネシー州ナッシュビルで開かれるなど、運動の規模は更に拡大の一途をたどっている。ティーパーティ運動のは、イギリスの茶法(課税)に対して反旗を翻した1773年のボストン茶会事件(Boston Tea Party)に由来、「もう税金はたくさんだ」と、増税を強要する政府を「悪」とする考え方に立脚している。今後この運動は、ギリシャの財政破綻によるEUの緊縮化にも伴って、それに反発する形で世界的に拡大していくだろう。そして、どこかの国で、あるいは、場合によってはアメリカ自体で大きな変革を作る。例えば、内戦、国家分断・・・丁度再来年、『2012』年を迎える世界は、オカルチックな終末論が漠然とした不安感を増幅させるトリガーに成りうる。引き金が引かれた時、ティパーティ運動は、単なる「運動」ではなく、税を払わない、政府=悪、法律を守らない正義、というカオスを迎えることになる。
日本人特有の「浅さ」がこれによって刺激を受け、「アメリカでいいならオレたちも」、ティパーティ運動はこの国に輸入されて変質し、様々な思想と入り乱れて日本も混乱の時代を迎える。これは、予測というとり、一種の予言でもある。

さて、カオスな時代がやってきても、オレは構わない、むしろ好都合、とは言ったものの、愛するもののために、そうではない、一度国が「沈む」にしても、もうすこし「ショック」の小さいソフトランディングなほうがいい。それが政治でもあるから。

そこで、この国が向かうべきは、まずは財政破綻しつつあるこの国の政府を極限まで小さくする必要がある。これまでも書いてきたが、「政府」であれ「行政」「法律」、あらゆる権力は「必要悪」であり、無くて上手く回るならそれに越したことはない。政府を小さくというのは、財政的にも人員的にも、そして権力構造も含め、小さく、または分散するという意味。つまり、地方分権と同じベクトルに向かう。

国家の形として、地場産業が育った江戸時代の300諸侯の行政区分が、地勢的にもコミュニケーション範囲としてもサイズとして最も丁度いいのではないか、基礎的自治体の姿はそのようなもので、その上で法構造を条例>法律、もしくは全て条例化し、法律をなくす、基礎的自治体の自由・自立を高め、それらを緩く連携する連邦国家の姿がこの国には相応しいと考えている。

だが、付き合いのある官僚たちの中で、地方分権を本気で考えているヤツがどれだけいるのか?実際は皆無であり、それはなぜかと言えば、「頭の悪い」地方公務員にガバナンスを任せるわけにいかないということを知っているから。この判断は、「今」は正しいが、しかし、それでもいずれ地方分権は必要、ではどうすればいいのか?そのためには法体系や財源だけではなく、知恵も権威も分散させることがどうしても必要不可欠なのだ。

法体系、財源(税制)、そして知識やノウハウというものはシステマチックにやろうと思えば出来なくもない。しかし、どうしても官僚からみた地方公務員の目線、あるいは羊牧化された国民が持っている「お上」という根強い価値感は、これまでのガバナンスにおいては「便利」だし、「従順」な国民はまさに手なずけるに容易かったが、一歩一歩民主化が形として現れ始めた今の、そしてこれからの「日本」にはどうしても合わないものになってきている。
日本人は極めてコンプレックスの強い国民だ。島国らしいといえばらしいのだが、その国民が変わり始めているというのに国家が変われない、変われないから閉塞感が強い、まるで糖尿病患者のようにゆっくりと国を蝕んでいっている。変われない理由は何か、国家を根幹で支えている「価値観」、つまり「権威」をどうしても壊さないとどうもこの国は変われないようだ。

そして、その「権威」の象徴は何か?ずばり「東大」である。
たとえば、それを証明するのは法治国家の根幹である法務省人事などに見られる。勿論「東大」にも功と罪はある。だが、はっきり言って、「東大」の権威は、これまで、ガバナンス上、とても「便利」だったし、利用されてもいきた。一方で、官僚組織や政府構造にもたらした弊害、カルチャーの独占がこの国の脱皮を妨げている。本来の学問や研究の場ではなく、広い視点での有用な人材選抜や登用を拒む「虚構の学問」の門として、まさに歴史的に存在し続けてきた、それが「東大」がある。この現実を、そして、この弊害を認識しなくてはいけない。

「東大解体」論は40年前もあった。しかし、それは所詮右翼・左翼の「プロパガンダ」に利用された稚拙な運動に過ぎなかった。だが、今こそ、「東大解体」を議論すべき時であり、それを越えられなければ、間違いなく、この国は、あと数年でカオスを迎えるだろう。

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