2010年3月20日土曜日

「ボクと君の物語」

文字にならない言葉がある
音符に出来ない歌がある
写真に写らない景色がある
誰にも語られない人たちがいる


君はそういつも
叫び続けていた

独りっきりで
あの場所で
なぜ命を削るように

血が流れても

それでも君は
前に進もうと
歩みを止めなかった

誰も知らない

いつかの君とあの街の物語


嘘は見抜き
真実を見据える
その時はとても強い君

でもボクの話を聞いて
涙を浮かべた優しい人

他に生き方がわからないと
そうボクの手を握ったまま
静かに眠りにおちていく君は

世界で一番弱い人

大好きだった
君のことが

少し休んでもいいよ

君がそうしたいのなら
ボクが見ててあげる

一息ついて
涙が乾くまで
抱き合って

大好きだったから
怖かった

あの日のボクと君の物語


だれにも愛されず

全てを愛そうとした君
その時はとても強い君


でもボクの話を聞いて
涙を浮かべた優しい人

他にはなにもない

そうボクの手を握ったまま
静かに眠りにおちていく君は

世界で一番弱い人

大好きだった
君のことが


少し休んでもいいよ
君がそうしたいのなら


ボクが見ててあげる

一息ついて
涙が乾くまで
抱き合って

ボクかそばにいてあげる

ボクが君を
つれていってあげる


幸せな終わりを
信じていいよ


これからの

ボクと君の物語

2010年3月3日水曜日

ネオ・アナーキズム

アナキズムまたはアナーキズム (Anarchism) は、一般的には『無政府主義』と訳される場合が多いが、その『無政府主義』とは、決して無秩序状態を指すわけではなく、権力構造としての「政府」、あるいは「国家」を持たない、社会において、第一義に可能な限りの自由な秩序を志向する。 「国家を廃絶し、自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立を主張する思想。」とWikipediaにはある。


世界はすでに調整期に入った。グローバル化によって、発展途上国の低賃金は輸入品の、様々な商品の価格内に存在し、我々の生活コストの中に染み込んでいる。
もはやその流れは止められない。世界を見ると、成長はどこにあるのか?といえば、まさにかつての発展途上国の中にしか存在しない。友人の商社マンがこんなことを言っていた。「石油が余ってきている。我々は、環境とか言わなくて済む国に行って石油を掘り、火力発電所を作り、売電し、それで稼いでいる。」と。そんな収益が、実に8割を占めている、という現実。まさに、世界は“肉”なのだ。

これまでの世界の既得権益を持ってきた先進国は、国内では“省エネ”“温暖化ガス排出削減”といい、あるいは“行財政改革”などといいながら、国家のスリム化を進める。一方で、既得権益の外にある、むしろそちらの方が大きい『世界』では、強烈な“肉”的競争を繰り広げ、権益を得る戦いを繰り返している。

そうでもしないと、“国家”の経営は、実に厳しい状況になってきているのだ。


こうして、一見自由で民主的とも思える国家像は、実は全く異質な社会民主主義的化していることに我々は気付くべきだと思っている。つまり、そうでもしないと“国家”の経営は成り立たない故に、CO2排出削減だのエコだの、あるいはムダ削減とか行財政改革とかが存在している。国家や行政は、この“調整”のため、より強権化し、肥大化し、固有のナショナリズムを助長し、しかし、サービスは低下する。

我々は、ここで考えなければならない。
国家とは何か、政府とは何かを。

多分、これは“必要悪”なのだろう。

国民の主権を守るための構造的な単位であるはずの“国家”が、あるいは政府が、国民の主権を蔑にしていいわけがない。だが、その単位を守るために、こうした調整があるとしたら、あくまでこれは“必要悪”なのだ。
つまり、“必要悪”であるならば、目指すべき志はどこにおくべきか?という問いに対し、僕は“自由”と答えたい。
社会は、権力や権威をもって統治されるべきではない。逆に、自由で対等な社会編成によって緩やかに構成されるべきであり、その阻害要因となりうるものを排除する。そこに既得権益の排除、全体主義のための権力や権威の排除といったことに正当性を見出す。

道州制の考え方は、ある意味これに近い。
昨年、総選挙前のことだが、海江田万里氏にインタビューを行ったときに、地方分権の考え方についてこんなことを言っていた。
「地方分権というとすぐ道州制っていうけど、僕らはあんまり道州制よりも、もうちょっと今、基礎的自治体と言ってもっと生活に身近なところを再編成していって、そっちに中心をおいていこうと言う考え方なんだけれど。地方分権、たとえば海外にはいろんな例があるよ。ドイツなんかはそうだな、フランスはどちらかというと中央集権に近い。歴史的にみると、江戸時代の日本を連想してみればいいってよく言うんだよ。もちろん僕は生きていたわけじゃないけど、ものの本で読んで知った江戸時代だけれども、江戸時代というのはそれなりに300諸侯いてさ、それぞれ教育から何から警察から全部(地方)が握っていて、生活、産業までそうだよ。で、意外とうまくいってた時なんだよ。で、国防だとか、外交だとか、通貨の発行だとか、これは江戸幕府がもってたということで、もちろん今中央政府の役割というのは他にも増えてきているけれど、基本的には江戸時代みたいな幕藩体制みたいなのを想定してもいいんだよ。それが案外結構、今でも地場産業ってのはだいたいその時代に興ってきたでしょ。だからそういう形に大胆にさ、地方分権を進めると。」

言ってみれば、基礎的自治体の中をなるべく自由な市場社会とし、これを全体で緩やかに手をつなぐ、これが彼の話していた国家像ということだった。

だが、実際のところ、この議論はまだまだ先になるだろう。民主党政権になってもなお、小沢ismによる権力闘争がまず先で、国家のデザインは先送り、そうこうしている内に、官僚主導による“必要悪”的な国家経営がむしろ思想を逆行させ、残念ながら、政府の強権化、肥大化、そして既得権益保持に向かわせている。

そして、まだまだハードルもある。

意外と論じられてない法律構造の問題もある。法律は、いわば社会の外郭にある薄皮のようなもので、その外にあるものから内側にある社会を守るためのものであるべき。しかし、今の法は真ん中にある。あたかもそれがモラルか正義であるかのように存在している。法令遵守が社会をむしろ悪くしているという人たちも少しずつ増えてはきたが、これじゃ、息が詰まってしょうがない。基礎的自治体ごとに、その地域にあった条例が上位にあるべきで、国の法律は、全体を緩やかに手をつなぐ程度のソフトローでいい。あるいは法律は条例の下位にあればよい。もしかしたら憲法だけあればいいのかもしれない、とさえ思う。
出来れば、法令もルールも無くて社会が成立するのならその方が良い。だが、そうはいかないから、やむを得ず、これも“必要悪”として法は存在する。したがって、“必要悪”に過ぎないものを正義であるかのように振りかざすのであれば、そんな権力は、あるいは権威は無用だ。

"Anyone who trades liberty for security deserves neither liberty nor security. "
「安全のために自由を引き替えにする者は誰も自由も安全も受けるに値しない。」ベンジャミン・フランクリン

私自身の考え方はこうだ。

政府であれ国家であれ、要はこの国のそういう権威、あるいは権力に、それでも“国民の家”であるべき国家のデザインをする権利が保持されていることを、私は許容出来ない。そこでデザインされた国家が、再び、どこかで不都合があっても、あるいは誰かが不幸になり、しかし、それでも政府はもちろん、結局誰も責任を取らない。その時、もし“政府”からこの国家を自治、あるいは統治する権利を剥奪できるのならまだしも、そうでないならば、この国家にあるすべての誰かが決めてきたデザインを拒否する。あるいは、必要とあらば破壊する。

せいぜい「自由な個人から構成される、相互扶助を基調とする小さな地域共同社会または中間的集団の確立」さえあれば充分。

これが、私の考えるネオ・アナーキズムです。