2012年2月13日月曜日

2月7日8日“帰村宣言”をした福島第一原発20kmの村、福島県双葉郡川内村紀行、地元の方々との交流会など

送信者 2012/2/7-8 福島県双葉郡川内村にて
人であれ、場所であれ、どうしてそこに惹きつけられるのか、そんな理由はどうでもいい。「テラさん、やめなよ。国にまかせておけばいいじゃん。」と、とくに“偉い”人に、何度言われたか。
福島県双葉郡川内村、福島第一原発から20kmのこの村の商工会長、井出茂氏と初めてお会いしたのは、昨年の11月のことだった。新宿区議の根本二郎氏が中心に進めてきた農山村との交流事業『歌舞伎町農山村ふれあい市場』、3.11の震災以降は、復興支援という意味合いも重なった中で、井出氏が新宿に訪れた時のこと。「川内村は原発から30キロ圏内に位置するところで、国​はこの地域に一律、水稲の作付を禁止しました。ところが​、村内の一部を除き、土壌汚染は国の定める基準値をはる​かに下回っている。しかしながら、3/​11以降全村避難を余儀なくされ、農家を辞める、意欲をな​くす方々もあり、深刻な事態になっている。」そんな話を井出氏から伺った。
3.11震災以降、何度か東北に足を運び、また、さまざまな歪や矛盾を抱えながらも、一歩一歩復興に向かう姿も目にしてきた。だが、その中で、“福島”だけは、どう考えればいいのか、正直答えを持てない自分がいた。風評被害、そんな単純な問題ではない。過疎化した集落の一つ一つに生活があり、人生があり、絆がある。だが、そこには、程度の差こそあれ、少なくとも、通常よりもいくらかは高い数値の放射線量があるという事実、時折流れるニュースでは、“冷温停止”的状態にあるという福島第一原発の不安定な挙動が伝えられることもある。我々は、例えばボランティア支援や活動をしようにも、若者をそこに連れていくことに、幾ばくかのためらいを余儀なくされる。実は、そこにこそ、今回の震災復興・再生における“福島”の核心がある、と思った。井出さんから『鍋でもつつきながら、やろうや。話をしましょう。』そんな風に言われた昨年の11月の出会いだった。
川内村は、阿武隈高地の中央部に位置し、阿武隈高地の最高峰「大滝根山」東斜面に立地し、標高500~600メートル。阿武隈高地の最高峰、大滝根山をはじめ700~900メートルの起伏の多い山岳に囲まれた高原性の盆地。耕地は、村の中央を貫流する木戸川とその支流に沿って開け、その中に大小24の集落が散在。村の大きさは、東西およそ15km、南北およそ13km、総面積197.38km2の約90パーセントが山林、原野。
村の基幹産業は農林業。農業については、原子力発電所関連企業などに多くの労働力が流出し、専業農家が激減、農業の労働力は婦女子、老齢者が主体になっている。“経営形態も、米・葉タバコ・畜産・養蚕・高冷地野菜を種々に組み合わせた複合経営がほとんどであるため、生産組織の育成、経営の規模拡大、流通の合理化など総合的な改善をはかることによって、若者が農業に魅力を感じる、自然と文化が調和した新しい村づくりをめざしている。一方、林業も、外材の輸入などによる木材価格の低迷が起因し、生産量及び就労人口が減少の傾向にあるので、立地や気象条件に適した特用林産物(シイタケなど)の生産の拡大と適木の計画的造林を進めている。”とwikiより。
なお、文化面で見ると、「山深い山村である川内が、全国にも多少なりとも名を知られるようになったのは“カエルの詩人”草野心平との出会いが影響している。長福寺の住職矢内俊晃師は、度々に天然記念物平伏沼のモリアオガエルを紹介、そんな中、ぶらりと長福寺を訪れたのが昭和28年(1953年) の夏であった。心平は七日間も矢内和尚と酒を飲み続けた。」ということで、“カエルの詩人”草野心平は名誉村民になっている。
“東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故によって、全域が警戒区域と緊急時避難準備区域に指定された福島県川内村が、1月31日に帰村宣言”
3月16日全村避難、昨年9月には緊急時避難準備区域の指定も解除された川内村。福島第一原発から30km範囲内に全村が入っているものの、“村中心部(福島第一原発から約20km)の空間放射線量は毎時0.1マイクロシーベルト、福島市や郡山市の数分の1程度と低く、他市町村より帰還への環境は整っている”と言う。川内村が含まれる福島県双葉郡は広く、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、川内村、葛尾村の8町村、それぞれに自治体がある。福島第一原発は、双葉町・大熊町。 “帰村宣言”がされる一方で、双葉郡には、放射性物質に汚染された土壌・焼却灰を保管する中間貯蔵施設を建設する方針が示されていたりもする。
3.11から11カ月が経とうとする、2月7日朝、雨の東京を出発、一路、福島県川内村へ向かった。常磐道で、おそらく通常は常磐富岡あたりで降りて内陸の川内村へ向かうのだろうが、このルートだと福島原発至近をかすめてしまうため、いわきから磐越自動車道を経由、船引三船インターを下り、288号、399号を経て川内村に入った。なお、東北の復興支援で水戸より先は無料(2012年3月31日までの予定)になっているため、首都高700円と水戸までの高速代2,000円あわせ、2,700円(普通車)で行けるのには助かった。メンバーは、自分と、映像クリエイターの弓田一徳、NPO法人グリーンバード副代表大澤真輝、そして、音楽家の古川琴子、この4人で行った。弓田は、自分と映像関係では同業、日常的に仕事を支え合っている関係だし、昨年5月の東北キャラバンには自分のサブとして一緒に活動をした。大澤は、グリーンバードで昨年は仙台荒浜地区の農業支援のプロジェクトを企画・運営してきた。歌舞伎町にもチームがあるので、それらを通じて関わり深い。音楽家の古川琴子は、多少疎遠になった時期もあったが、知り合ってかれこれ5年、彼女の音楽と、音楽に対する姿勢を自分が愛しているということからなんだろうけど、公私にわたって、いろいろ支え合えたらいいな、という感じの人です。自分は、それなりに“年”とはいえ、弓田も大澤も三十代前半、琴子はまだ20代、そんな若者を連れていくこと、そこに巻き込むことに、当然ながら、批判もあるかもしれないが、だからこそ、一番信頼できる、責任を負い合えるパートナーとして、彼らを連れて行ったわけです。

川内村商工会長の井出茂氏、彼が経営する蕎麦酒房「天山」にて、井出さんの手打ち十割そばがボクらを迎え入れてくれた。元々井出さんの息子さんがここをやっていたそうだが、震災後に息子さんたちは埼玉へ避難、井出さんがここを守るようになった。それから蕎麦を打つようになったそうで、だから蕎麦打ちキャリアは7カ月くらいとのこと。毎日2kgの蕎麦を、客が来ようと来まいと打ち続けるそうです。食後は、天山の囲炉裏を囲んで雑談など。
交流会を前に、地元の名物のいわなを、この村の観光名所である“いわなの郷”の渡辺さんが、獲りたてのいわなを囲炉裏で焼いてくれました。琴子がお手伝い、になったかどうか・・(笑)



▲2月7日夜、川内村商工会長の井出茂氏主催の、ボクらと地元の方々との交流会の模様。井出さんは商工会長であるほか、村議会議員でもあります。村役場からは農村振興課の松本課長・小松係長・藤宮主任、川内村の地元の主婦方で運営されてる『川内へ迎える会』の秋元洋子会長、同会の新妻さん、渡辺さん、西山さん、伊藤さん、元々バイク雑誌のライターさんで今は川内村在住の唯一のジャーナリストだという西巻さん、が参加しています。ダイジェスト59分。



▲2月8日朝、前日の交流会のアルコールも抜けやらぬ間にですが、井出会長のインタビューを行いました。インタビュアーは自分、パーソナリティ風に、音楽家の古川琴子、画面には写ってませんがグリーンバード副代表の大澤真輝が同席しています。ノーカット74分11秒、ちょっと長いですが、いろいろ“核心部”が見えてきます。良かったら、ご覧ください。


2月7日、8日と二日間の川内村取材でいろいろ感じたことの中で、明確な目標は、なんとなく見えてきた。無論、全てを自分が出来る訳でなし、いずれにせよ、多くの理解者を求め、或いは、今後、資金面での支援も必要とする場合もあるかと思いますが、以下、具体的目標をまとめておきます。

[農業支援]
・米作~作付・作業ボランティア、川内村サポーター集め、直販ルート開拓
・オーガニックコットンの生産、Tシャツなどのデザイン、製品化~販売
[教育支援]
・情操教育(例:帰村した子供たちと、村民による吹奏楽団創設~指導、演奏会)
[文化事業]
・音楽(例:収穫祭コンサート、クリスマスコンサートなど)
[発信]
・放送局、Ustream、あるいはIT、映像技術の指導。


川内村の放射線量は0.1-0.2マイクロシーベルト/毎時。東京の、約2倍ぐらいでしょうか。周辺には、それよりも高い線量の地域が点在し、地元の方が言うには、「川内村は山に囲まれた盆地だから助かったのかもしれない。神風が吹いた。」と。だが、ここに住む人たちの生活圏は、今は線量が高くは入れない海側の双葉町側にあるということで、つまり、地勢的には村は助かったのかもしれないが、生活圏は破壊されている。農作物の作付禁止に加え、この事が、雇用を破壊し、故郷に帰りたくても帰れず、郡山(仮設住宅)に避難したままの人たちが、現実に郡山に留まる理由の一つだと思われる。また、風雨や雪に晒され、アスファルト上の放射性物質は洗われているが、土にはまだ多くの放射性物質が残っているはずで、この冬の時期は、雪に閉ざされているから線量が出ない、という可能性もある。春、雪が解け、夏になれば、その土が舞う季節がやってくる。その時、線量はどうなるのだろうか、という危惧もあるかもしれない。
だが、それでもなお、かつて2,700人の人口があったこの村に、少なくとも今現在200人の人たちが留まり、村に帰りたいと思う人たちを迎え入れられるようにと、“ふるさと”を守ろうとしているという現実がある。あたかも、それは、報われるかどうかわからない片思いのようなものにも感じ、故にその、“無償”となるかもしれぬ“愛”を誰かが支えられたらいいなと、その役割がボクらにはあるのかもしれない、と思った。

自分の、あるいは、ボクの仲間たちの、まだ一歩目のこのアクション、いろいろ賛否はあるでしょう。返って、物事を複雑にしかねない可能性もある。

だけど、自分は、さらっと、こういう事を簡単には、通り過ぎれないのです。せっかく知り合った人が目の前にいて、関わり合いの中で、出ない答えを一緒に探したいと思ってた。東京から約200kmそこらの場所に、福島第一原発がある。川内村がある。そういうリアリティを、東京にいると忘れてしまう。だが、そこにいけば、人がいて、生活があって、笑いも涙も、希望も絶望もある。面倒くさいかもしれない、でも、少し“くどい”くらい位の人間関係が当たり前だったらきっと世界はもう少しマシになる、とずっと思ってきた。ここは自分の信念。それに、どれほど完璧でも、一人で何彼やったところで、そこには冷たい空間しかない。一人より二人、二人より皆でやることは、とても楽しいはず。東京から離れて、だが、そこには、支え合いという、我々のDNAの、どこか源流のようなものがあった。感じた。触発を受けないわけはない。

送信者 2012/2/7-8 福島県双葉郡川内村にて
冬は-10℃以下に下がる日も少なくないそう。どうせ行くなら、まずは一番寒い時季に行ってみよう、と思ったのですが・・なぜか、ボクらがいた二日間は暖かくて・・それでも、朝は-5℃くらいだったかな。

ボクはボクの文章や発信で、琴子は琴子の音楽で、また、これからも賛否を受けながらもデキルかぎりの何かをやりながら、それが誰かに響いたらいいな、その誰かが“勝手に”川内村に行って、ボクらのデキルかぎりを越えて、さらなる何かを生み出すことを願っています。

送信者 2012/2/7-8 福島県双葉郡川内村にて
井出会長(川内村商工会長)、川内へ迎える会のおネエさま方と一緒に。大澤の寝起き顔のわけは、実はおネエさまにどぶろくでつぶされた後なもので。2時間ほど、倒れてました。ちなみに、Ustreamを担当した弓田は、この後つぶれました。次の日の昼まで二日酔いで起きれず・・・手前みそですが、ホントに、体を張った、愛すべきスタッフでした。